『時がにじむ朝』

時が滲む朝

時が滲む朝

東京から遊びに来たお友達が、芥川賞受賞作を持ってきてくれました。
天安門事件前夜から北京五輪前夜までの話で、89年を思い出されました。

天安門事件の89年は、私の初めてのパリ長期滞在の年でした。語学学校には、東欧からの学生が徐々に増えておりましたが、ビザ解禁と観光ブーム以前の中国からは、エリートの国費留学生がフランス語の補修にやってくる程度でした。5月のクラスには一人中国人留学生がおり、そのエリート意識は目を覆うほどでしたが、それは彼が理系の研究者だったからかもしれません。フランス語や英語は、読み書きで覚えたためか発音がひどすぎて先生にもほとんど聞き取れないほどだったのですが、自己紹介をするときに、「博士」と黒板に大書したのを覚えています。学生の民主化要求運動にはきっぱり距離をとっていた彼でしたが、パリに来て面白いのは、複数の諜報活動から自分の行動がチェックされているというのがすぐにわかることで、新しいアパートに引っ越すと、『人民日報』と、民主化要求運動の機関紙の両方が自動的に、定期的に配達されてくるのだ、と言っていました。

秋のベルリンの壁が落ちた後の一種の興奮状態も忘れられない出来事でした。そのときに普段あまり見ないテレビを見ていて気がついたのは、ドイツや東欧の国々でフランスのテレビは街頭インタビューをフランス語で取っていることでした。東欧からロシア、アフガニスタンや中東でも、ある種のインテリやエリートはフランス語を学ぶため、多くの紛争地の人々がフランス語を使って、しかし彼ら自身の口から状況を語れる、と言うのは軽いショックでした。

文学賞が持つ機能については、プロの書評家がいろんなところで語るのでしょうが、同時代の世界的な事件の当事者の物語が、日本語で書かれた、というところには、やはりある種の感慨を感じます。クンデラがフランス語で、プラハの春とその前後、またその数年後を繰り返し書いたように、この著者も1989年5月が、そして2008年8月が何だったのかを書き続けていくのでしょう。これだけの時間の中での出来事を書くにはあまりにも短く、ちょっとあらすじを読んだだけという感触もあります。オリンピックに沸く2008年としては、きっと著者も共有していたものすごく濃い愛国の思いを、自分でも面映く感じられて距離をとってこういう風に書くしかなかった、と言うことなのでしょうか。